体に染み込むということ


呉 清源、本名は呉 泉と言われる囲碁の神様がご存命だ。中国は福建省の出身で、裕福な家庭に育った。父は、戦前日本の大学で勉強して、中国へ帰ったという。

父親が帰国するたびに、日本の囲碁の本(棋書)を持ち帰り、幼い呉師はそれを読んで囲碁を勉強したと言う。

大変な天才が中国に居るという噂が日本に聞こえるようになるまで、さして時間を要しなかった。大倉財閥の大倉喜八郎、政治家犬養毅、プロ棋士瀬越憲作らが、それぞれの役割を果たして、呉師は日本へやってきたのである。もう、80年も前のことになる。

もの心がつくか、つかぬ頃から囲碁を始めて、90年間、囲碁を業としてこられた。

囲碁における専門棋士(いわゆるプロフェッショナル)の生活環境は、大同小異、このようなものであろう。

呉先生は幼い頃、重い棋書を左手に持って、碁盤に向かい石を並べていたために、左手の人差し指が変形しているそうである。現代の名棋士と呼ばれるプロも、石を並べすぎて爪がペラペラに薄くなったり、座る時間が長すぎて、ヒザ小僧の毛が全部抜けてしまったり・・・とかの逸話に事欠かない。

心血を注いだ修業が何をもたらすのか?

囲碁の命は石の動きについての読みである。どれだけ深く、正確に、完璧に読めるかという技術をベースにして、彼我の石で囲んだ面積のいずれが、どれだけ大きいかを判断する(形勢判断と言う)ことである。

自分が思うに、血の滲むような修業によって得られるのは、ヨミの肉体化だ。つまり、考えなくてもヨメるようになることだ。

たとえば、日本人なら日本語を話すのに、いちいち考えなくても正しい文法にのっとった文章が口に出る。

これは幼い頃から、敢えて言えば胎児の頃から母親が話す言葉を何百万回も聞いているうちに、言葉を話すという行為が肉体化しているからだ。コンピュータで言えば、ハードウエア化しているといえなくも無い。

体に染み込むとはこういうことなのだと思う。

逆に、体に技が染み込むためには、何事も邪心の働かない幼子の頃から修業をする必要がある。理屈で考えるようになってから始めた修業では、最終到達レベルに雲泥の差を生ずる。およそ、芸と言えるものは皆そうだ。

翻って考えるに、釣りという芸も、全く同じようなプロセスを辿るものではないか?

私には何人かの釣りの師匠が居ると勝手に決めているのだが、お師匠さん方はたいてい、川のそばで生まれたり、幼少の頃から川で遊び、魚を遊び相手にして育っている。

囲碁とは違うかもしれないが、川の中の様子、魚の気持ちが意識しなくても、ヨメるのである。また、水中の魚の様子を視覚として捉える能力が皆、大変優れているのである。

どうやら、皆、お師匠さん方は渓流釣りに関する専門釣師なんですな。こと釣り技術に関してはハードウェア化したものを持っている。

それに比べてオイラは「遅れてきた青年」の著者と同じ四国に住む、「遅れてきた老年」釣り師だから、最終ゴールに段違いの差が出てしまっても仕方ないのかもしれない。師匠等が機械的・無意識的に出来てしまう事を、いちいち、頭で考えながらやってるもんだから、時間が掛かるし、とっさの対応も下手だ。


 

 

   
  銀次郎釣り話トップへ

 

   
   
inserted by FC2 system