-烏鷺烏鷺日記 その1:碁敵-


碁キチという人種がいる。一旦碁会所の椅子にすわると、ペタリと張り付きなかなか動かない。四角い碁盤を嬉しげな目で眺めているかと思えば、眉間に深い皺を立てて、世の中で是ほど深刻な事が他にあろうかという顔つきをしながら身悶えている。

時には、“助けてくれいッ” “人殺しイ”等と叫ぶから、警察の隣で碁会所は開けない。
兎に角、完璧なヴァーチャル人殺しが整然と楽しめる人種だ。大方の碁打ちはそうは言っても、まあまあ静かに打っているのであるが。

殆どの碁キチにはそれぞれ、カタキと呼ぶ碁打ち仲間が存在する。他の誰に負けても良いが、カタキにだけは死んでも負けたくない、そういう相手を碁カタキという。碁キチにとって何が大切といって、碁カタキ程大切な生き物はいないのである。逆に言えば、碁カタキがいるからこそ碁を打つのだ。カタキに隠れてこっそりとハメ手を覚えるのも、今度カタキに出会ったら、ハメてやろうと渇望しているからだ。

トイレから碁の本を抱えて痺れる足(用足しが済んでも碁の本を読み続けているうちに、アンヨがシビレてしまうのだ)でヨタヨタと這いだしてくるのも、碁カタキが居ればこその話だ。負けたくない一心で、日常では考えられない様な言葉が飛び出すのも、カタキとの勝負にあっては、ほぼ気狂い状態なのだから、必ずしも人格が異常な訳でもなさそうだ。


一度、大きな碁会所へ行って10分も座って碁カタキ同士がどのような言葉を口にしているかお聞きになると碁というゲームの面白さが判っていただけると思う。

“あんた、今落とした石を拾っただろう?まさか、2つ拾ったんじゃないだろうな!!”
“何を!! そういうこと言うから、昔からあんたとは打ちたくないってんだよ! ったく品がねえんだから。文句あんなら、もう一局やって、白黒つけようぢゃないか!”

と吠え会うペアがこちらの隅にいるかと思えば、あちらでは、

“あなたねえ、いま打ってから石から手を離したじゃないですか、え?え?”
“何をおっしゃるウサギさん!離しちゃいませんよ、置いてから横にちょっとずらしただけじゃないですか。”
“いいや、離しましたよ。それを‘待った’と言うんですよ。あなたほどの打ち手がみっともないじゃないですか。え? え?”

と怒鳴り会う。と、こっちでは、

“あ、ヒドイよ、その石アタリ(*)だったんじゃないか?”
“へえー。あんたと打つ時はいちいちアタリ、アタリって言わなきゃいけないですかい。
そんなルールが日本棋院にあるんですかねえ。ふーんこりゃ驚いた。“
“それにしても、今の石を取る手は早かったなぁ。取るときゃあ早えぇんだよなぁ。品がねえなぁ!”
“そりゃそうだろ。ノロノロ石取ってて‘待った’されちゃたまんねえもの。品も糞もあっかい!”

(*)囲碁では相手の石を囲んだら盤上から取り去ることができるが、次に打たれたら取られる一手前の状態をアタリと言う。

欧米人は、どうもヴァーチャル殺人ゲームとは解釈していないらしく、あまり、さあ、殺せだの助けてくれだのとは吠えないようだ。
プロの碁打ちというのは可哀想なもので、おそらく碁カタキといえる友人は持ち得ないのではなかろうか。碁カタキにだけ勝って、他の連中にみな負けてたんじゃ、おまんまの食い上げになってしまいますからね。



   
 

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