-方言というもの-


地方に住むと、地方の言葉 - その中に伝統と愛着をたっぷり含んだ語彙と言い回し - が日々の生活の中でコダマするのはとても嬉しいことである。

総称して方言を話す人たちといると、生活の定着感が得られることも確かだ。

ところが、私が住む高松の小・中・高校などの子供たちの様々な発表活動を報ずるテレビ番組を見ると、子供たちは如何にして、方言的世界から脱却しようかともがいている様子がありありと窺える。

いわゆるNHK的な発音をしなければという、いたいけな、虐げられた精神をそこに垣間見るのである。

NHK的なと言うのは、いわゆる標準語と呼ばれるあいまいな、アクセントをつけた関東風の発音に加え、更に誰が決めたか知らないが、ガギグゲゴの音を鼻に抜けるような濁音にして、明快なサウンドから遠ざけようとする努力である。

子供たちは、おかしな標準語的発音に捉われる余りに、意思を明確に表出する点で著しくパワーを失ってしまっている。

これを虐げられた精神と自分は定義する。

異国の言葉で異国の歌を唄う人がアクセントやら個々の単語の発音に捉われて、歌詞の持つ内容の表現に著しく劣ることと全く、同じなのである。

標準語なる言葉を最初に聞いたのは子供の頃で、第二次世界大戦が終わって間もなくの頃、当時JOAKだとか言っていたNHKが使い始めたものではなかったか?

多分、NHKのアナウンサーの中にもいろいろな方言をしゃべる方が居て、放送局としてのしゃべり方の一元化が求められたのではないだろうか?

政治の先棒を担いで、自分たちこそ公共放送の担い手であり愚かな国民に正しい価値観を植え付ける使命があるなどと考えていたバカモノ(今でもその空気はこの放送局の番組を見ていると拭い去れないのだが)どもが、国の大切な言語文化を破壊するような妙なスタンダードを作りあげたにちがいない。

これ一つでも大変な罪悪だと思うのだが・・・はっきり言ってNHKのアナウンサーが使う言葉のアクセントは美しくないし、躍動感も全く感じない。

自分にはロボットがしゃべっているように感じられてならない。

地方の子供たちがどんな言葉を話すかということは、地方の時代・地方の自立と言う点において、非常に重要なことであると僕は思う。

いやしくも、教育の場にある先生方は、自らのアイデンティティを捨てることに繋がる標準語の使用等は子供たちに強制しないばかりでなく、方言の重用をして貰いたいと願う。

話は変わるが、大阪、京都、奈良、神戸といった関西文化圏の教育者や子供たちは、このおかしな標準語崇拝の気持ちは持ち合わせていないようだ。

これは、この生活圏の人々は歴史的にも文化的にも、「関東的なるもの」に強い反撥心を抱いていることによると思う。

全国には素晴らしい方言やアクセントが宝物のように散在している。

こういったものを大切にしないで、一体何にすがろうとしているのだろうか-日本の地方文化は?

東京地方にも江戸言葉の流れを汲む、美しくも明快なアクセントを伴う言葉があった。

それは夏の朝、打ち水をするときのようなスッキリとした透明感と粋な言葉使いである。

今でもかすかに存在するが、相当な高齢の方でないと話せなくなってしまった、つまり、東京方言である。

これすら、標準語とやらの氾濫で絶滅的な言葉になってしまった。

標準語は日本言語世界においては、淡水魚の世界におけるブラックバスのような存在だ。

日本古来の言語種を食い散らかして、絶滅に追い込もうとしている。

まさに駆逐すべき言葉だとは思われないだろうか?

方言をしゃべることが羞恥心を引き起こすような文化的背景を誰が作ったのか?!

わが町高松の子供たちも、「糞ったれた標準語がしゃべれない恐怖症候群」に陥っているのだろう

。これこそとても恐ろしいような気がしてならない。

日本人の創造性を欠落せしめるような画一性を育む音声言語的環境から脱却すべく、打倒!標準語だ!

みなさ〜ん!!自分たちの土地の言葉で話しましょうねぇ〜っ!!

と言っても、どれだけの友達が賛同してくれるだろうかという不安が大きい銀次郎であります・・・


 

 

 

   
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