片付けをして思うこと


母を亡くして3ヶ月が近づいてきた日、物置を片付けた。

勝手口のそばにスチール製の物置を設置したのはこの家を建ててすぐのことだった。

訳の判らないものが山ほどあって、物入れや物置へと入れたが、家の外へとあふれ出したからだ。

ダンボールの大きいやつ、小さいヤツに昔の本がぎっしりと詰まっている。

それを片っ端から開けて、整理しようと言うけなげな心意気である。

開けてみると、まぁ、汚れた和とじの書籍が出るわ、出るわ。

湖月抄、円機活法、四書正解などなど・・・しかし、読めん!

細かい木版刷りの行書体で、いっぱいの文字が眼に躍るだけ。

それぞれ、50巻とか40巻とかになる大部の全集だ。

一体何の本なんだ!これは!

それに読めない毛筆で細かい注釈までギッシリと書き込んである。

インターネットは便利な道具だ。

活字を入れて検索すると、源氏物語の注釈本だとか、漢和辞典であるとか説明されている。

世の中には偉い人達がいるもので、こういう書籍を読めるようだ。

ふと、考え込んでしまった。

いつから、普通の日本人はこういう書籍が読めなくなってしまったんだろうかと・・・

これらは、明治の初めまで生きていた曽祖父が大切にし、書き込みなどをした本だ。

一方、自分の父は漢籍などはあまり得意とはしていなかったと思う。

父は明治31年の生まれであるし、父の叔父は板垣退助の自由民権運動に身を投じていた男だった。

また祖父は漢詩を作っては節をつけて読んでいたと聞いている。

そんな環境で育った父にしても、草書体で書かれた掛け軸を読むのは不自由だった。

つまり、明治の終わり頃、既に我が国では漢文の読み書きを主体とする教育は廃れていた!!

奈良や平安の時代から連綿と1,000年以上も培ってきた文化。

それが明治になって捨て去られた生きた証拠とは言えないだろうか?  

「明治は遠くなりにけり」などと言う。

明治は、昭和や平成とは格段に違う武士道に満ち溢れていたようなこと懐かしむ台詞だ。

しかし、明治は諸外国に遅れを取るまい、富国強兵こそが大切だと考えた。

それが世界に比肩しうる国造りの指針とばかりに、拝金主義の原型を築いてしまったのだと思う。  

日本古来の言葉を捨て、西洋の言葉を使うことで、金銭的な豊かさを求めようとし始めた時期。

それが明治だったのかもしれない。

日本の文化を捨てることと引き換えに大陸へ進出しようとした。

ひるがえって、欧米の言葉を考えると彼等は自分達の言葉を捨ててまで、そういうことはしなかった。

だから、何百年も前の書籍が今でも誰でも読めるではないか?

ダヴィンチ・コードなんて本を書こうと思ったら言葉の連続性なしに古い文献を調べることはできない。

日本が変わったのは第二次大戦の敗戦によってではない。

明治というとんでもない選択の時代に変わってしまったのだと言えないだろうか?

百年を経て出現した古い本を整理していてふと、そんなことを考えてしまうのでありました。

 わずか百年前の本が読めない自分が情けなかったし、とても悔しい。

(2006年05月21日)


   
 

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