師匠−その3−

ソウルオリンピックが開かれる前の年のことだったから1987年の5月である。職場の仲間で韓国へ旅行にいこうではないかという話が持ち上がった。国内ばかりで仕事をしていたとっつあん連中も花のOLに刺激されて、海外旅行くらい行けなくてどうする、え、どうする?という追い詰められた雰囲気があったのだと思う。
取り敢えず宿は決めておいてあとは自由行動というワクだけみたいな旅行計画だから気楽だ。

私の訪韓の最大目的は、ヤン師匠に教えを請うことにある。早速、国際電話で某新聞社へ電話をいれた。もちろん、日本語で相手と話しをしたものだ。師匠の本職は新聞記者なのである。

訪韓の主旨を申し上げたところ、忙しいので土曜日に新聞社まで来てくれないかと言う。勿論、そのつもりではあったが、なんだか日本にいた頃よりつっけんどんな喋りかただ。彼とて住み辛い日本から故郷へ帰ってトラの如く激しく、忙しく働いているのだろう。

やがて当日、約束の時間、新聞社の5階へヤンさんを尋ねて案内嬢に師匠のところへご案内頂いた。
“ハイ、私がヤンです!”と言って出て来た人物を見て驚いた。


私の師匠とは全く別の人物ではないか?私は狼狽してしまい、何をいったか覚えてないが、これでヤンさんに会えなかったら一体何しに韓国へ来たんだ?まいったなあ!と思ったことだけ覚えている。


“ハイ、私の名前は”楊森”と書きますよ。これでヤンサンと読むんですよ。あなたの尋ねてるのはヤンピョウですよ。”梁平”の所はここではないからご案内します”、といって全く別のフロアへ案内された。師匠は取材で外出中だという。

全く、おったまげた話である。日本語で“ヤンさんお願いします”と電話したときから、もうてんで間違っているんだから駄目だ。韓国語では森をサンと発音することは死んでも忘れない。

早い午後の日が段々西にかたぶき、このセクションも帰り支度が始まっている。しかるに師匠は帰って来ない。
帰り支度を始める人が、
“8階にティールームがありますよ。ここでお待ちになるのも大変でしょうから、如何ですか?ご案内しましょう”、
といって8階にあるレストラン風の部屋へ連れていってくれた。


ビールをたのんでかき餅などをポリポリやってると目の下にソウルの街が広がっている。夕日にセピア色に照らされた古い街、なんて平和なんだろうなんて勝手に考えているうちに寝てしまった。どのくらい寝たのだろうか?
ふと、人の慌ただしい足音と話し声で睡眠が破られた。時計はもういつのまにか8時を指している。

ハーイ!ヤンですよーっ。元気の良い声がするじゃないか。入り口から、おお懐かしいヤン師匠が駆け込んでくる。おお、夢か幻かと思われた。手を取りあって、旧交を懐かしむ。

何しにきたんですか?と彼は聞く。そりゃそうだろう。今はじめてヤン師匠と話をするんだから。いやあ、一手教えてもらおうと思いまして・・・。その晩は突然、ヤンさんの家に押し掛ける事になってしまい、今から考えれば本当に失礼なことをした。

奥様には突然の訪問にもかかわらず心の籠ったご馳走を振る舞われ、誠に失礼ではあったが嬉しい再開でありました。

二日に渡る徹夜に近い碁の終わりに師匠言ってくれるじゃないですか。
Ginjiroさん?3子じゃつまらないなあ。もう少し強くなってきてくれないと。・・・


ヤン師匠の碁は最初の一手から戦いの碁である。切れるところは皆切っておき、あとからそれの使い方をジワリジワリと考えて来る。嫌な碁だ。強い相手の碁は皆、嫌な碁ではあるけれど。

それと時間を使わないのである。一種の天才肌で戦いがどこでどのように起きるのか、そのときどう打っておけば良いのか?これをどうも本能的に嗅ぎつけているらしい。ポンポンと好テンポで打たれると負けも早い。1局1時間もあればすぐ投了すべき局面になってしまう。

彼が日本に留学していた約1年の間に様々な日本人と碁を打ったが真剣に打った碁を彼が落としたのを見たことがない。相手は街で7段、8段と称している連中である。


彼は新聞社の特派員としてベトナム戦争の末期、ハノイ陥落を自国に報じたジャーナリストである。まるで、昨今のイラクのような状態だったのではなかろうか?確か、韓国の新聞囲碁観戦記も執筆していた経験もあることを聴いた様な気がする。


師匠は美術の造詣が深く、古代の陶器から現代の絵画に至るまで広範囲な美術品についての鑑識眼をお持ちである。 師匠の言葉がズシリと胸に響く。


“元々韓国では美術品というものはお金を出して買ったり、お金の為に売ったりするものではないんですよ。親友同士であげたり、貰ったりするものなんです。だから家に飾ってある絵はすべて友達から貰ったものなんです”


別れ際に師匠がくれた新聞紙の包みに、彼の書斎に飾ってあった清楚な青磁の花活けが包まれているのが判ったのは、ホテルで日本へ帰る荷物を整理している時だった。


こういう師匠は忘れられない。青磁の花活けのせいではなくて、真に我々日本の先達としての文化を感じさせてくれるからである。

アメリカ人はこのようなもてなしをするであろうか?聞くのが野暮というものである。


ハングルを習うことの意味合いはこうした先祖のような国の方々と真に意義深い会話をするためなのである。中国語やインド語もしかりだ。 (April 16/2004)


   
 

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