-オートバイという乗り物-
最近は、そのブームもやや、下火だという話をどっかで聞いたことがある。オートバイだ。
これほど若者が熱中する乗り物もないのではなかろうか?
良く知らずに言うのも恐縮ですが、このオートバイって言葉はいつ、誰が言い出したのだろう。
日本では、比較的抵抗なくそう呼んでいるけど・・・
多分、Auto Bicycleなんて言葉を誰かが考え出して、それを日本流に短くする、例のクセが出たのかな。
一般呼称はバイクだ。
海外ではMotor Cycle(モーターサイクル)というのが普通だ。
Auto Cycleというと原動機つき自転車のことらしい。
セガレがオートバイに乗りたいと言い出す時期はみな共通している。
自我に目覚めて、この世へ自分ひとりで生まれてきて、自分の力だけでこれまで生きてきたというやうな、錯覚に陥る頃に一致しているように思う。
高校生の初め頃がそういう時期なのではないか?
大抵の親は、セガレがそう言い出すと、困った奴だなぁ・・・となんだか不安になる。
これから受験も控えているというのに、バイクなんかに乗って、勉強はしないだろうし、暴走族の仲間に入るのではないか?
人身事故でも起こしたら、イッタイどうする!え、え、えっ!というわけで、家庭では母親がお父さん、ボンチを叱ってくださいよぅ〜、みたいなこと言う。
せっかくの日曜だというのに気も重く、セガレに説教垂れようかという親父も気の毒だ。
バイクという乗り物、実はとても面白いのだ。
一度これに乗ったら、他の乗り物なんててんで面白くない。
ヘルメットの隙間からゴルフの練習場なんかで棒振ってるのをチラリとでも見たら、アイツら馬鹿ぢゃねぇか!と思うくらい爽快なのである。
空気にじかに触れ、走る場所によって違う温度や匂いをイヤというほど感じる。
4輪車と違って、不安定だから、道路を走っているとホントに機械をコントロールしているという実感が強い。
逆に難しそうなコーナリングがこなせると、その達成感は4輪車との比ではない。
同時に危険極まりない乗り物であることは間違いない。
今考えてみると、メンタルなコントロールが利かないとホント危ないのだ。
だから、バイクを長年乗って、怪我ひとつしたことがないという人は、とても冷静で自己分析のしっかりした人物なのではないかと思う。
従って、若者がバイクに乗って爆走することは、社会正義的にみると危険だという結論は容易に得やすい。
しかし、それがどうした!という骨太さもほしい。
だって、危険なことは山ほどあるのがこの世の中だ。
これから何をして生きるにせよ、冷静な自己分析をベースにして戦っていかなければ、この世で成功なんておぼつかない。
それを身に着ける、しかも自分の体を痛めつけて体験することほど、人間らしくて男らしいことはないではないか?
自分がやりたいことと、自己との距離を冷静に分析して、実現のための準備をして挑戦するのが人生だ。
ある種の教育的な装置だと言えなくもない。
自由な楽しさと、それに伴う責任を体で自覚できる装置だ。
不幸にして、この装置の持つオールマイティに己の精神が追随できずに怪我をしたり、命を落とすこともあろう。
だからといって、この装置が悪いということにはならない。
薄い皮の袋に水を詰め込んだようなブヨブヨした物体の人間だ、いつ袋が破れるかわからんぢゃないか。
45歳を過ぎて、バイクにテントやらコンロ、食器を積んで東北地方へツーリングに行った。
初めは北海道へ行こうと計画してたのに、ツーリングの前日に部下とめちゃ飲みして、スタートの日にはとてもバイクに乗る気分ぢゃなかったのだ。
翌日も遅くになって出発したから、北海道でふらふらしてる時間が取れなくなってしまった。
盛岡まで走って、とある施設のキャンプ場でテントを張る。
ラーメンを詰め込んでウイスキーをあおって寝る。
翌日は宮古まで、信号が100kmもない山道を走って太平洋へ出る。
宮古では普通の旅館に泊まった。
うまい魚が目当て。
そこからリアス式の海岸を南下して、神割崎とかいうキャンプ場へ走りこみ、ビールにラーメンの飯を食う。
冷たいビールを火照って、カラカラに乾燥したのどへ放り込みながら、ビーチサンダルに履き替えて、太平洋を眺める。
小野リサのボサノバを聞きながら、太平洋を眺めていると、もうこのまま死んでも構わん!という気持ちになるのが不思議だった。
これも、オートバイ旅行のなせる業なのかもしれない
。60歳になったら、もう一度、バイクに乗って、今度はオフロード用の軽いバイクで山の滝など訪問してみたいと思っている。
そのときはどんな音楽がピッタリくるのかなぁ。