-Way of Life- 人間、死ぬまで生きるのは当たり前なのだが、近頃の人間は(もちろん自分も含めて) 、”自分が死ぬということ”を明確に自分の手の内に握り締めて、その感触を確かめることが出来なくなっているのではないかと思う。 大東亜戦争の敗戦後60年を過ぎて、人々の心から死の認識が遠ざかっていったこともあるだろう。
寿命が延びに延びて 自分が、死を迎えるシチュエーションを思い描くことが極めて曖昧なものになっている。 それゆえ、いつまで生きるのだろうか?いつまで生きねばならぬのか?ということが漠然としていて不透明で掴みにくい。 そこに健康食品や生命保険などといった人心に取り入ったと言ったら失礼かもしれないが、そういったビジネスの巨大なマーケットがある。 ”兎に角、金さえあれば生きていても恥を晒さずにすむ”、という”恥”のあいまいな定義が拝金主義の背景にある。 なんとかメシは食える。漠然と生きていける。 しかし、いつまでこのようにして生きねばならぬのか。 これは全く判らないから、兎に角金にしがみつこうと言うわけだ。 昔は死に対する予想が今よりリアルに出来た。 戦争があれば、徴兵制で戦地 に赴く。死とは隣り合わせの世界だから、ある程度の確率で死ぬことが覚悟できる。 結核などという恐ろしい病があり、若くして死ぬ友人も多い。で、そのようなありようの死を覚悟する。 栄養補給の点でも今よりは格段に劣る環境では、いつ病死してもおかしくない。 人生50年とか言って、そのくらいで死ぬのが当たり前と思いつつ、その通り死んでいった。 経済が人間の生より重視された世界では、姥捨てなどという凄まじいシステムさえあった。 武士の世界では葉隠れではないが、武士道とは死ぬことと見つけたりみたいな、何かあればすぐに死んでみせるみたいな、親しみのある行為として己の命を捨てることに拘泥しなかった。 死をより身近に捉えていた時代には、人間として尊厳を保ったまま、あの世からのお迎えが 来たものだ。 ところが、死ぬということが観念としても捉えがたくなってきた現代は、尊厳を保てなくなってもまだ命があるのは稀でない。 能力に衰えが来て、自分の生命を自ら維持するための働きができなくなっても、命がある。 これは、人としての尊厳を脅かすが、自然界に住む動物としてはありえない事態なのだと思う。 人間を動物で無いと言う人はいないだろう。 人間だけが他の動物と違っていつまでもみっともなく生きて良いと考えるのも傲慢だ。 何年生きなければならないのか?という問いが今、切実な問題化している。 これは一般的な国民の深層に根ざした新たな悩みなのであるが、さりとて動物としての機能を失いつつある高齢者をどう扱えば良いのか。 この答えが見出せていないようにも思う。 ”人道的見地から・・・”、”人道的に・・・”とはいうものの、 それはどういうことなのか? と突き詰めて考えた議論は聞いたことがない。 臭いものに蓋的にして、その議論から国民的に逃げている。 これは文化人と言われる人たちの怠慢だと思う。 あるいは文系人種の怠慢だろう。 文学の衰退を耳にして久しい。 まともな文学としてこれに答えを与えるような小説でも現れないかと期待する。 今の暮らし振りを続けるとすると、あと20年しか生きられない。 金が底をつくからだ。 で、なんとか老体に鞭打って、仕事を探すという行動に出る。 まさに文字通り「生きるために働く」ことを実践している中高年が非常に多い。 実は生き恥を晒しながらの苦闘であり、何のために生きるのか?という問いに答え切っていないとすれば、人の尊厳などカケラもない。 実はこのあたりの不明さが、現代日本のいい加減さ、不透明さのモットモ根底に横たわる意識なのではないかと疑っている。 現在の国民の悩みとは、そういった不安に根ざしている。 いつまでも今の様な生活をして行きたいと漠然と考えるとそれを脅かす年金不安、労働不安、家族不安などなどの不安が黒雲のように心に広がる。 当然顔付きが悪くなる。 しかし、それでは金が底をついてしまって食えなくなったら、死ねば良いではないか? と考えてみると、実はそれも自然な姿だということに気づく。 動物界では餌が取れなくなったら幾ら素晴らしい牙や爪をもっていても、んなもん、全然役立たず冷厳な死と向き合わねばならぬ。 また、それが全く自然である。 人間だけがそういった状態と無縁であろうとすることこそ、糞厚かましいのかもしれない。 これからは好きなことしかやらん!嫌いなことには一切手を出さない! 金がなくなりゃ餓死すればそれで、済む。 世の中事も無しぢゃ。 そう考えれば身が軽くなるではないですか? 癌?そんなもん知るか! 医者なんか無責任なこと言うな! ほっといてくれ! 俺の人生お前らの言うとおりになんかなるもんか! さて、そう見切ることができれば、達人だ。 死を見切れば、生も見切ることができる。 死が確実に手の内になければ、所詮、生もコントロールできまい。 良寛のいう、「死ぬるときは、死ぬが良し」とはこの間の事情を語っているのだと思われる。 June 16/2005
|
||||||
tidbitトップ
|
HOME | NEXT | ||||