-踏み切りで止る馬鹿、止まらぬ馬鹿-”踏み切り問題”の定義

東京は小金井の開かずの踏切が一方にあれば、この遮断機はいつ下りるのだろう?と思われるようなローカル線の踏切もある。 

田舎の踏切でも、それを横切る道路にはオビタダシイ車が走っている。車は田舎へいくほど律儀に踏切の前で止まる。

1台が止まると、次に来た車もまた止まる。次も、次も、2列に並んで止まっては発進する。ふと考える。これって正しいことなのか?ってね。

クルマが止まって発進するたんびに排気ガスが出るし、エネルギーの浪費、時間のおびただしい浪費に直結している。

遮断機や警報機のある踏切で、列車が近づいているのに警報機が鳴らず、あるいは遮断機も下りてこなかったとしたらそれは、誰の責任なんだ?

電車は線路の上を走っている。踏切に近づいたらそれを検知するのって、ひょっとしたら、えらくローテクな話(Not ハイテクをローテクと言う)なんでは?

バンキングのシステムよりはローテクだよね?普通、ハイテクなものよりはローテクなモノのほうが完成度は高いと考えても良いのではないだろうか?

だとすりゃ、普段何も疑わずに銀行のシステムを使って給与を振り込まれたり、国のお袋に送金している人が遮断機つきの踏切で止まるのはおかしくは無いか?万一警報機も鳴ってない、遮断機も下りてない踏み切りで車が列車と衝突するようなことが起きたら、技術の常識から考えて、すべて鉄道会社の責任と断じられても、仕方がないのではないか?

極めて複雑なコンピュータ・システムで制御しているバンキング・システムでさえ、事故があればすべて銀行の責任だというのに、たかが知れた技術による遮断機が下りないことによる踏切事故の責任が個人に課せられる日本って何か間違ってると思わないかな?

鉄道事業が”官業”に任されていた時代を背景とした交通法規がまだハバを利かせている日本の道路行政はまったくおかしい!!喝!!ってもんでしょ。

もちろん、官業的在り方を信頼せずに、疑い深く踏み切りで止まっているとすれば、それはそれで正しい態度です。逆にそこまで馬鹿にするのか!!って怒り出す鉄道会社に現れて欲しいよね。

そうではなくて、道路交通法に従わないと警察に捕まるから止まるのだという考え方を多くの国民が持っているのでは、日本は良くならないと言いたいんです。

郵政民営化だとか何とか改革なんておおげさなもんでなく、もっと身近な硬直した法律改正をちゃっちゃとやることが本当に大切だと思うんですが・・・

一方で踏み切り問題以外にも”官業的風潮にアグラをかいて威張っている”組織、業界ってのは非常に問題が多く、こいつらを見直し閉めださない限り、明るい日本はない!

いわく、医者の意識の問題、いわく教育者の意識の問題、いわく宗教者の意識の問題、更には警察の意識の問題・・・いずれも踏み切り問題と言えなくはない。

国民が主権者であるという憲法の骨子なんざ、全く無視されているのではないか?憲法は何も19条と安保問題に集約されるものではなくて、こういった主権者無視の国家の在り方こそ、将来の日本の成長の阻害要因そのもの、つまり、小泉氏言うところの改革の抵抗勢力そのものなのではないだろうか?

 

 

 

 

 

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