渓谷との対話


今回の釣行では考えさせられることが多かったので、ありのままに状況をレポートしてみたい。

車止めから荒れた小道を辿って渓へ降りた。早朝の渓はうっすらと霧にけぶって銀色の蛇のよう。

まだ、上流には残雪のある川に立つと、長袖でも冷気が身にしみる5月だ。 右手から名にし負う支流が流れ込んで居る。小砂利を踏んで本流を、ついで支流を渡り右手の林に入る。

ここから約1時間遡ってからがポイントだと名人が言う。息を切らせて、歩き易いところを探しながら進む。枯れ枝を踏み折る音にドキリとするのはなぜだろう。

すでに山に呑まれていた。渓谷の持つ気迫に圧倒されているからに違いない。情けないが、今の自分には太刀打ちできぬ力を持った渓が睨んでいた。

台風による崖崩れで山道さえ見当たらぬ斜面を、名人の踏み跡を頼りに登るのはえらくしんどい。大木がなぎ倒されてゆく手を阻むが、これを乗り越えるのはかなり危険だ。仕方なく根元まで迂回する。

あちこちに動物の足跡、鹿のものと思われる真ん丸い糞がある。熊の足跡はないだろうか・・・気が付くといつのまにか渓のせせらぎすら聞こえなくなっていた。

一休みしませんか?と声を掛けるのが憚られるような名人の足取りだ。機械のように正確にバランスよく斜面をトラバースしていく後姿になかなか追いつけない。汗が吹き出し、それが冷えては、また乾く。

やがて、はるか眼下に青い落ち込みとそれに続く平瀬が見えてきた。この辺から釣ってみましょうか?と名人。かなりの急斜面を木にしがみつきながら瀬まで下った。その先には美しい落ち込みが待っている。

静かに、静かに!身をかがめて仕掛けを結んで、竿を延ばしていく。5.4mの竿に1.8mの仕掛け。道糸は0.6号の通し、8号の大鉤だ。無論、幼魚を掛けないための配慮である。

落ち込みまで体を半分ほどに畳んで近づいた。手前の岩に身を隠して3投目に目印が止まった。一呼吸送り込んでから軽くアワセると、水中で真っ白な魚体が反転した。アマゴだ!!

強い引きをこらえながら、一気に抜き上げたら冴えたアマゴが水面を叩きながら手元へ飛び込んできた。口から鼻の穴に針が抜けている。地獄のついてないスレ針なのですぐに外して、写真に収めた。

名人もすぐ上の落ち込みで、7寸くらいのアマゴを掛ける。
出だしは最高!今日の運勢を占ったようなものだと思った。ところが、そこから釣れない。

名人が小型のアマゴを掛ける。岩をよじ登っては淵を探る。竿を畳んで、次のステージへ這い上がる。掛からない・・・何度繰り返しただろうか。

あっと気が付くと名人は上の落ち込みを狙っている。兎に角、速い。速すぎる。 その間にも、竿先をしならせてアマゴが掛かっているようだ。


行く手に大滝が迫る。これはどうやって越えるのだろうか!
名人が手前の岩に勢いを付けて跳ね上がった。自分も真似をして両手で岩をつかんでは、右足を大岩の凹みに掛けて、左足で支点を探る。膝で岩に体をホールドしながら右足を引き上げる。ふ〜。上がれた。そんなことを繰り返して滝を上がったところで、名人が8寸を掛けているのが目に入った。


アマゴはいる!集中力が回復した。しばらくして、自分にも鋭い当たりが!今度のは素晴らしい。これも尾びれがトキ色をした天然物に近い谷のアマゴだ。握った左手に筋肉の躍動が伝わる。


何尾かを魚篭に収めて、昼飯を食べたがそこからは数は出なかった。名人は数尾を加えて午後3時半に納竿とした。

帰り道が酷かった。危険な箇所を二つ越えてきているので、川通しで降りるわけにはいかない。あまりにも危ないからだ。斜面を登り、作業道を探すが見つからぬ。名人もこの谷へ入るのは20年ぶりだという。

昔は営林署が歩道を綺麗に整備していたが、近頃は放棄された道が荒れ果て、小さな沢に掛けられていた橋も朽ちて通れない。作業道は渓を右岸から左岸へ渡った反対にあり、それもしばらく行くと、再び逆に右岸に移るといった有様で、さすがの名人も帰路を探すのに思案する時間が増えてきた。渓へ降りるたびに時間を貰って、谷の水を掬って飲む。

渓に突き出た尾根を巻くのにかなり急な沢を登り、そこから尾根へ横に山に沿って進むが、カモシカでもない二足歩行の動物にとっては困難を極めた。二時間ほど掛けて、支流の入り口までたどり着いたが川面を照らす夕日に向かって尻餅をついて立てず、しばらくは喘ぐのみであった。

ゴロ道を這い上がって車にたどり着いたら、午後6時を回っていた。 渓流釣っていったい何なのかと苦しい息をしながら考えていた。


素晴らしいアマゴに出会うためにはこんなところまで来ないといけないのか・・・
一人だったら今日のような釣をすることは絶対に不可能だった・・・
還暦過ぎの爺が、夢のようなアマゴに出会うなんて、もう諦めなければならないのだろうか・・・
放流アマゴがいくらスレているからといって、それを里川で釣るのは意味が無いことなんだろうか・・・
明日から残りの人生で自分はどういう釣りを目指すべきなのであろうか・・・
名人にはなんとお礼を言って良いか判らないほど感謝しているのだが、希望が押しつぶされたような、胸苦しいものを感じつつ、川を後にしたのだった。

渓流の釣り・・・そこは冷徹な自然がそのまま、むき出しになっているフィールドだ。同じ環境に入っても、それに十分耐えられる肉体と精神を持った人もいる。一方で自分のような弱虫で渓にねじ伏せられそうな人間もいる。

年齢を重ねれば、誰しも渓に立ち向かえなくなることは否めない。若い頃は登れた岩も登れなくなるだろう。半日で往復できたであろう谷に一日掛かるようにもなろう。

穴吹川上流で会った人が言う。「地元で釣をする人間はおらんようになった。みんな年取ったけんのぅ〜。」そういうものなのだ。

肉体的支えが結果に直結する渓流の釣り。人が衰えを確実に自覚せざるを得ない、これほど残酷な遊びがあるだろうか。しかし、翻って考えると、まったく不変なもの(厳密に言えば、個人の生涯の時間の中においてという条件はつくけれど)と右肩上がりで衰えていくものの関係が明らかに意識させられるものほど、人間を醒めさせてくれるのかもしれない。アブクゼニをばら撒いて、綺麗なお姉さんにチヤホヤされる夜の遊びとは対極にある遊びには違いない。

釣ってきたアマゴは・・・・こんな風にして。  

 

数日後の食卓を飾る燻製となりました。塩焼きにして食べるのも悪くないが、命がけで釣った魚は、それにふさわしい丁寧な加工が似合っていると思う。 


Friday, 05/18/2007

   
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