たそがれ清兵衛

最終上映があと1日となった映画を観た。
景気の悪い田舎都市の映画館は、客席が数十で、平日とはいえ午後も遅い4時50分の開演に集まった観客は自分を入れてわずか3人だ。煎餅を齧るオバハンと老人と俺だ。

清兵衛は年恰好で30代半ば。年老いて清兵衛の名前さえわからない時があるマダラボケの母親と二人の幼い娘、それに要領の悪い下男の五人暮らしだ。
藩の史書などを整理する下っ端役人で俸給は年五十石、手取りで三十石だという。今で言えば年給300万円といったところか?
毎日の暮らしにも困る有様で、清兵衛は夜な夜な竹で編む虫かご作りのアルバイトをしている。勿論、娘も手伝っているが、その娘たちには論語、四書五経などを寺小屋で学ばせ、学問の目的は苦境を自ら切り開く力を身に付けることにあると、娘に問われて答える。

映画の冒頭で妻の葬式の画像が流れ、それに要した費用が一両二分だったとか。今で言えば20万円ちょっとというところだが、それさえ清兵衛には不自由で、父から譲り受けた刀を売って捻出した。

一仕事終わってサラリーマンたる同輩の下っ端役人どもに一杯やらんか?と誘われても彼らと酒など酌み交わす経済的/時間的余裕がなく、常に夕暮れ時には断って帰宅することから、”たそがれ”の名前がついた。

映画のテーマは、家族をなにより大切にし、子供達の成長を見守ることを生甲斐として、周囲からなんと言わようとも人間としての尊厳を失わない男の生き方とはどうあるべきか?を問いかけている。

清兵衛は戸田流小太刀の名手であることが図らずも露見してしまい、上意討ちの刺客として指名されて苦悩の末、決闘に臨み、藩命をまっとうすることで、彼の技量を証明したが、並外れた剣技さえ、彼の目的の前には不要の物である。

現代社会で言えば、超有能な技術屋が会社の危急に際して、技量を発揮してプロジェクトを成功させるが、彼の最大関心事は子供の成長を見守るために静かな家庭生活を維持することという構図だ。果たして今のような拝金主義が横行する時代に、自分のスキルを金に変えずに捨て去る生き方が可能なのか?という感嘆の思いが、陰影となってこの構図を立体的に浮かび上がらせている。

この単純な骨格に親友の妹で後添えとなる女性にまつわるサイド・ストーリーが時代背景の元で語られて肉付けとなったり、上意討ちの相手となる剣客との身の上話に時代性を絡みつかせている。
しかし、これらは刺身のツマ的存在であり、骨格は単純だ。

終始映画を貫いている思想は、現代の拝金的な考え方に対して反省を求めるものとなっているし、子供に対する親としての姿にも反省を求め、さらに企業の論理と個人の論理のどちらを重視すべきか?にも一石を投げている点で、この映画は現代文明への痛烈な批判となっている。

しかし、映像メディアは雄弁であって、これをメディアとしての言葉で表現するとえらく手間が掛かるだろう。
ま、重箱の隅を突付くような揚げ足取りは幾らでも出来るけれど、面白い映画だった。

これ以来我が家では、倹約生活を送ることを「清兵衛殿。清兵衛殿」と念仏のように唱えている。考えてみれば我が家の経済は清兵衛殿の家庭以下なんだものなぁ・・・果たして人間のdignityを維持できているだろうかと風呂に浸って考える銀次郎であった。

 ただ、愛する人のために・・・



   
 

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