-打ち出し- 


 

 それにしても、「打ち出し」は難しい。絵でさえ正確に描くのが厄介だのに、まし金属を立体的に浮かび上がらせて、目的のものを表現するのは結構、厄介なことなのである。

自然界にあって誰にでも容易に想像できるものを、打ち出すのは、ますます面倒だし、難しい。かえって、抽象的なデザインを打ち出す方が、気楽というか、(無責任にといえば語弊があるが)多少ヒネ曲がってもそんなもんもあるわい、と納得がいったりする。その結果同じものを再現するのは殆ど不可能に近い。

動物の場合、目が勝負になる。眠った魚とか、寝ている昆虫だなどと強弁して目をつぶらせるわけには参らぬ。 彫塑作家に聞いた話だが人間の手足は、実際よりも大きく表現しないと、存在感が無いという。目はあくまで飛び出ている動物が多いので、そこを誇張するとハッキリすると我が師匠はのたまう。

「打ち出し」では、まず何を表現したいかを決めなければならない。つまりテーマである。テーマが決まればそれにふさわしい図柄を選択する。

図柄が決まれば、トレーシング・ペーパーに書き、カーボン紙の上から、打ち出す金属の上に図柄をコピーすることから始まる。

コピーが転写されると、それに沿って、「ナメクリ」タガネで図柄を金属上に傷として描いていく。何度も熱を掛けたり、酸で洗ったりしても描きたい図柄が失われないようにするためである。ナメクリタガネで図柄をトレースすると、金属の裏側にも表と同じ模様が残されるからである。

金属板を叩いて凹凸を表現するのに多用されるタガネを「出しタガネ」と呼んでいる。金属を打ち「出す」タガネだからである。打ち出しの初期の工程では比較的大きな出しタガネを使って、図柄のアウトラインを縁どって行く。この段階で使うタガネの打つ面はヤスリなどで表面を荒らしておく。滑りにくくするためである。

最初のうちはディテールにこだわらずにおおらかにアウトラインを膨らませていく。

場合によっては裏から直接叩き出す。

工程が進むにつれ、細かいところの表現に移っていくが、細かいところを打ち出すには、細いタガネが必要になってくる。

伝統的な彫金をやっている人なら、大抵タガネは自作する。自分のタガネでないと信頼できないというか、どういう打ち跡が残るのかが判らず不安だからだろう。

で、どんどんタガネの数が増えていく。100本以上も持っている人もすくなくない。

タガネは株と呼ばれる鋼を目的にあわせて削り、刃をつけたり、頭を丸くしたり、表面を荒らしたりしてから、焼きを入れ、焼き戻す。タガネ株は鉄に対する加工を行う場合はハイスと呼ばれる硬度の高い鋼を用いる。

最終的に目的のテーマが立体的に浮き上がれば、打ち出し物の腰(地金からの立ち上がり部分)をキッチリと決めて、糸鋸などで切り抜き、裏金をロウ付けして、ブローチなどに仕上げる。

文字で書けば簡単なんだけど、実際に打ち出しをしてみると、大きなものになると非常に時間が掛かることが多い。もちろん延べ作業時間も多くなるが、精神的に緊張が続かず途中でイヤになってしまって、中断することがあるのだ。そんなときは無理せずに一休みして、数日を置いてまた、取り組むのが良いらしい。

それにしても、絵を描く力はあらゆる工芸的な作業の上では欠かせない基本中の基本技術であることが痛感される。そこに存在するものを、見て、目玉というレンズからアーキテクチャをそのまま脳に刻み込み、それを脳の中で再構築して、今度は出力機器であるペンシルを操作する筋肉への信号として伝達していく。信号によって伝えられる頭脳内のアーキテクチャを筋肉への伝達信号として出力しては、目玉から再入力してフィードバックを掛けながら頭脳内の構図を修正していく。

結構、複雑な操作系オブジェクトが互いに通信しあって絵が描かれていくわけで、自分などは、これらの系のどこかに異常があるか、フィードバック系に異常があって描かれた絵はそこに存在する実態とは乖離し歪を生じている。弱ったものだと思う。

キチンと絵が描けるということは少なくともこうしたすべての系が正常であることを証明している。

全く同じことが言語をしゃべるという行動についても言えるし、言語活動はもっと人間として総合的な行動ではないかと思われる。すなわち、言葉をしゃべれるということは、本当に凄いことなんです。


 

   
 

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